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松涛会からのお知らせ

才木幹夫さん(前理事長の弟)の被爆体験伝承講話

  • カテゴリー:理事長
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この文章は、前理事長の弟、才木幹夫氏の被爆体験を、語り部の方が書き取ったものです。才木氏は被爆体験を語る語り手であり、一方で語り部の養成にも尽力しています。
是非読んでいただき、お子さん、お孫さん、次世代のひとにも伝えていただければと思います。

2026. 8.6  理事長 斎藤 妙子

才木幹夫さんの被爆体験伝承講話

私はxxxxと申します。広島出身で高校生までは広島で育ち、今は京都市内に住んでいます。私の母は10歳の時に被爆したのですが、残念ながら被爆した当時の話はほとんど聞いていませんでした。思い出したくない辛い原爆の話はあまりしたくなかったのだと思います。子育ても終わり仕事にも少し余裕ができ、そろそろ被爆2世として平和活動をしたいけれど京都に住みながら何ができるだろうか、と考え始めましたが、京都にはなかなか広島の被爆証言をして下さる被爆者の方がいません。そこで私の母校の先輩の被爆者の方で、被爆体験を話してくださる方を探し始めましたが、関西在住の先輩で話ができる方はなかなか見つかりませんでした。しばらくして、2024年から証言活動を始められた才木幹夫さんとお出会いすることができたのです。
才木幹夫さんは、1932年生まれで、偶然にも私の亡くなった父と同い年です。穏やかで優しいお人柄ですが、内に秘めた想いがとても熱い方です。才木さんは戦後、合唱団に入り、上京して声楽家として活動をされました。その後、広島に帰省して放送局に勤務されたのですが、ずっと「生き残った息苦しさ」を抱えてこられました。その一方で、「いつか被爆証言を語らなければ」という感情も持ち続けておられました。2022年2月にロシアがウクライナに侵攻したとき、覚悟が定まり一大決心をされ、92歳から証言活動を始められました。
何度かお会いしお話を聞いていく内に、才木さんの伝承者になりたいと思うようになり、ご本人にその気持ちをお話しし、今に至ります。
才木幹夫さんが生まれる一年前の1931年に満州事変が勃発し、1937年に日中戦争が始まります。1941年には日本軍が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入していきました。ここからは、才木幹夫さんのことを幹夫さん、と呼びます。幹夫さんは、当時日本の統治下にあった台北で生まれました。寿小学校という大規模な日本人向けの小学校に1938年に入学し1学期まで過ごしました。日本と比べて台湾は広く感じたそうです。お父さんの転職で、夏休みに故郷の広島に帰り、爆心地から約2.5キロメートルの荒神町小学校へ転入。小学生の幹夫さんはおかっぱ頭で、習慣も異なるため、帰国後最初は「お嬢」とからかわれ、イジメにあっていました。住んでいた家は広島駅の近くで、模型のヒコーキづくりに夢中で東練兵場(現在の広島駅北口周辺にあった旧日本陸軍の巨大な訓練場)で遊んだりしていました。
当時は、爆心地から約5.8キロメートルの宇品港(現在の広島港)からたくさんの兵隊さんを戦地に送り出していて、旅館に収容しきれない兵隊さんを自宅に宿泊させたこともあったそうです。幹夫さんは、兵隊さんは優しいと思っていました。小学校卒業後は、広島県立広島第一中学校に入学します。広島第一中学校は、「一中」と呼ばれていました。一中1年生の時は普通に授業があり、英語や漢文の授業も受けていましたが、2年生になると、戦争が激しくなり勉強どころではないと、一気に授業が減りグランドの芋畑を耕していました。
その当時の広島は中国地方の中心都市であり、全国有数の陸軍の重要な拠点で、軍の施設がたくさんありました。太平洋戦争が始まり、第一総軍の指令部は東京に、第二総軍の指令部は広島に置かれ、広島は重要な役割を果たすことが期待されていたのです。1944年以来アメリカ軍による日本の主要都市への空襲が激しくなる中、広島市への大規模な空襲は行われず、人々は不思議に思うと同時に不安も感じていました。そして、幹夫さんが一中2年生になった年の夏、8月6日に広島に原子爆弾が投下されます。
さて、ここで原子爆弾の被害について少しお話しします。1945年8月6日午前8時15分、広島市内中心部の相生橋を目標に、人類史上初めての原子爆弾が投下されました。そして目標より約300m離れた病院の上空600mで炸裂しました。この真下の地点を爆心地と言います。爆発の1秒後には、半径200mを超える小型の太陽のような火の球を作り、熱線と放射線を放出し、すさまじい爆風を引き起こしました。この熱線、爆風、放射線の3つが複雑に作用して、大きな被害をもたらしました。熱線により、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度になり、多くの人が即死したりひどい火傷を負ったりしました。また、爆風により人々は吹き飛ばされ、粉々に割れたガラス片が身体に突き刺さって怪我をしたり、壊れた建物に押し潰されたり下敷きになったりしました。直後に起きた大火災により、爆心地から半径2キロメートル以内の地域はことごとく焼けました。倒れた建物の下敷きになり、生きながら焼かれて亡くなった人も数知れません。さらに、原爆から放出された放射線は人体の奥深くまで入り、細胞を破壊して、深刻な障害を引き起こしました。外傷のない人々や被爆直後に広島市内に入った人々でも、高熱や下痢が続き、髪の毛が抜け、皮ふに紫色の斑点(皮下出血)が現れ、死に至る場合もありました。放射線の恐ろしさは何年も経ってから白血病や色々な癌などを引き起こすことです。放射線の人体への影響については、今でも充分には判っていません。原爆が投下されたとき、広島には約35万人の人がいたと考えられています。1945年の年末までに約14万人前後の方が亡くなった、と推計されています。
原爆被害についての概要は終わり、ここからは、幹夫さんの被爆体験についてお話しします。一中2年生だった幹夫さんは13歳。その当時、戦争が長引き、大人の男性の多くは戦争に駆り出され、その代わりに、「学徒動員」といって、中学生や女学生が工場などで働いていました。幹夫さん達2年生は、7月末くらいから2つの工場に分かれて動員されていましたが、2年生の引率の先生から突然「8月6日は休日にする」と伝えられたのです。このことについては、後ほど詳しくお話しさせていただきます。
幹夫さんの家は、爆心地から2.2キロメー トルの段原中町にあり、自宅にて運命の8月6日の朝を迎えました。原爆投下直前の午前7時過ぎに警戒警報が出ましたが、約20分後の7時半頃に解除されました。長男の幹夫さんは、朝食後にいつものようにお母さんから食糧の買い出しを頼まれていました。いつもは素直に出かけていたのに、虫の知らせだつたのか、この日に限って出かけるのを渋っていました。お母さんのたっての願いで、仕方なく出かけようと玄関でくつ(地下足袋)を履こうとしてしやがみ込んだそのときです。今までに感じたこともない強烈な真っ白い光に包まれた瞬間、建物が崩れ落ちて真っ暗に!一瞬の出来事でした。「やられた!近くに爆弾が落ちた!」と思いました。しばらくして、明かりが見える方に、天井などを跳ね除けて外に飛び出しました。その瞬間、家にいたのは、勝手口で地下足袋をはこうとしていた幹夫さん、台所付近にいたお母さん、妹2人、弟の5人、家は半壊しましたが、奇跡的に家にいた家族は全員無事でした。
外に飛び出した幹夫さんは、向いの家のおばさんが「ウチに爆弾が落ちたんよ!」と言われるので、そうだろうと思いました。それから、家の中に残されて動けない人を助けたり怪我人の手当をしたり、無我夢中でした。家の周辺は見渡す限り家屋が半壊状態で、路上に建物や家具の破片が散乱していました。ふと比治山の向こう一面にモクモクと火煙が上がっているのに気づきました。広島市の中心部です。それを見た時に、勤めに出ていたお父さんはどうなったんだろう、と心配になりました。そして、広島全体が大火災だ、一体何が起きたんだろう、想像も出来ない広範囲な被害を受け止められませんでした。家の中に戻ると、玄関の下駄箱が壁を突き破り、柱は傾き、天井は落ちてガラス片で一杯でした。
さて、幹夫さんが家の片付けをしていると、何か表が騒がしくなり、外へ出てみるとなんと広島市の中心部から比治山を降りてきた異様な集団、被爆した人たちの行列が見えました。男女の区別もつかない、人間とも思えない形相で、顔は赤黒く膨れ上がり目は開いてない、髪は焼け縮れ逆立っています。皮膚は火傷をした皮がズルッと剥けて垂れ下がり両手を突き出して歩いています。服は焼け千切れ半分くらい裸の状態です。そんな姿の被爆者たちがソロソロと数珠つなぎ(数珠のたまを糸で連ねるようにたくさんの人が一列につながって)で段原の町に現れたのです。私たちに気づいて、「水をください」と言うので、道端の散水用ポンプ(戦時中は特に空襲火災防火用として道に手押しポンプがあった)の水を汲んであげると「ありがとうございます」と礼を言ってまた行列に加わって去っていくのです。
その姿が実に哀れで怒りを覚えました。すると兵隊がやってきて「水を飲ませるな!飲んだら死んでしまう!」と叫ぶのです。幹夫さんは、今でも、水を飲ませて良かったのか、と、複雑な想いになるそうです。
昼前頃、外出していたお父さんが左半身大火傷で帰ってきました。お父さんは、的場の電停で電車を待っている時に被爆されました。その日に限って長い間電車を待っていて、やっと来た電車は満員で通過しました。その電車に乗っていたら、.広島市の中心部にいる時間でした。原爆が投下されたとき、気がつくと10数メートル吹き飛ばされて荒神橋の上にいました。川の中には人がたくさん浮いていたそうです。家に帰って来てしばらくすると、お父さんの火傷は、皮膚が破れて垂れ下がってきて、赤身丸出しで手当をする薬もありませんでした。2、3日すると、傷口が膿んで白い線が動き出しました。よく見るとその白い線は小さな蛆虫です。傷の手当てができず、不衛生だったので、ハエの幼虫の蛆虫がわいたのです。幹夫さんはそれをひとつひとつ箸でつまみ出していました。
家族にはもう1人、国民学校(小学校)6年生の弟がいて、広島から北西へ15~6キロメートル先の久地の村にある西正寺で学童集団疎開をしていました。当時、国民学校初等科の子どもは、防空対策の一環として、子どもが空襲に遭わないように田舎で生活をさせていたのです。弟は、8月6日の朝、農作業に行く途中、異様な光に続いて大きなドン!という音がして、先生の「伏せろ!」の声に身を屈めましたが、そのとき目の前にバサつという音が聞こえました。見ると、なんと広島市役所と書かれた、半分焼けた書類でした。さっきの光と音は広島で、広島からこの書類が飛ばされてきたのだ、と不安を覚えたそうです。弟はその道で、「黒い雨」を浴びてしまいました。原爆投下後、炎から逃れる人々の上に粘り気のある「黒い雨」が降りました。大粒の激しい雨で、傷ついた人々は、この雨に打たれ、渇いたのどを潤すために雨粒を飲み込みました。しかし、この雨には放射性物質を含むチリやススが混ざっていたのです。黒い雨が降ったとされる地域や時間についてはさまざまな証言があります。広島市の東側と北東部を除くほぼ全域とその周辺部で降った可能性があるとされています。
さて、ここからは、一中1年生のことについてお話をします。幹夫さんの家の近くに、一中1年生の山本真澄くんが住んでおり、学徒動員が始まるまでは一緒に集団登校をしていました。山本くんは、学校近くの建物疎開の作業中に被爆してしまいました。建物疎開とは、空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して、防火地帯を作ることです。現在の平和大通り一帯で大規模な建物疎開作業が行われており、8月6日に中学1、2年生を中心とする多くの生徒たちがこの作業に出ていました。この作業は屋外で行われたため、多くの犠牲者を生むことになりました。原爆投下時に、1年生の奇数組のクラスは建物疎開作業中で、偶数組のクラスは作業の交代のために校舎の中で待機していました。
作業中に被爆した山本くんの様子を山本くんのお父さんの手記から抜き出してお伝えします…..8月6日の朝「まぁ、お気の毒ね、どこの方ですか?」と外で声がする。「山本です」まさに子どもの声だ!私は夢中で飛び出した。しかし、何という惨い姿。全身の皮膚は剥がれ、顔はぷくぷくと火傷して、我が子の面影はない…「お父さん、お母さんに会いたかったから、夢中で地獄の中から抜け出して帰ってきました」…子どもは水を欲しがり、妻は言われるがままに、水を与えた。夜11時頃かすかな息の中から「本当にお浄土はあるの?」と問う。『戦争もない何もない静かなところだよ』「そこに羊羹もあるの?」『ええ、何でもありますよ』「ほう…そんなら僕は死のう」子どもは口の中で念仏を唱えていたが、それからは「水」と言わなかった。やがて12時に両親に見守られながら息を引き取った。真に立派な往生であった…このように、お父さんは書き残されています。山本くんが両親に聞いた「お浄土」とは亡くなった人が一切の苦しみから解放された極楽浄土のことです。
山本くんは奇数組でしたが、作業交代の為に校舎で待機していた偶数組の状況を児玉光雄さんが語っています。児玉光雄さんは一中1年生の生き残りで、後に被爆証言者になられた方です。…ピカーッと黄金の火柱。瞬間に意識を失う。気づいた時は土埃と油臭い粉塵の匂いで息苦しい。板などをへし折り五寸釘で肩を傷つけ、2~3度、土の塊のような物を吐きながら、やっと崩れた校舎の上に這い出た。次はクラスメイトの救出、助け出されたのは18名。煙や火の手が迫っている。校舎の底の方から「お母さ一ん」「広島一中万歳!」「天皇陛下万歳!」と切迫した声が聞こえる。それが一層苦しそうな声で「鯉城の夕べ雨白く..」という校歌の合唱に変わった。立派な最期を遂げた、と見届けて欲しいと訴えているかのようだった。助かった者が「火が回ってきたぞ、もう逃げよう!」と叫ぶ。「すまん、みんな…すまん…」と、後ずさりしながらそこから離れた。後ろ髪を引かれる思いで電車道に出て被爆者たちと共に南に向い辿り着いたのが御幸橋だ。そこで川面に嘔吐を繰り返す。川面をゆっくり流れてゆく死体を見ながら、助けられなかったクラスメイト達に、済まぬ、と涙を流した。
爆心地から900 メートルの一中では、一発の原子爆弾により、校長先生をはじめ16名の先生と353名の生徒が亡くなられたのでした。わずか12~13歳の少年達が激しい戦争のさ中に、物資の欠乏に耐え続け、そのあげくには原子爆弾により悲惨な死に方をしなければならなかったのです。1年生の山本真澄くんたち奇数組は全滅、児玉光雄くんたち偶数組の生き残りは19名でした。そして、幹夫さんたち2年生は、休日だったため命が助かったというわけです。このことが、幹夫さんの生き残って申し訳ない、という辛さになったのです。
さて、翌日の8月7日の朝、幹夫さんは友人に誘われて学校に向かいます。比治山に登った途端に見えてきた異様な光景、まさに地獄絵そのものです。道の両側一杯に黒い物体がズラリと並んでいるのです。全て人間の死体、炎の中を自力でここまで辿り着き、昨日はまだ生きていたはずです。そんな中、兵隊がやって来て「若い者はおらんか?年寄りは後回し!」と、若者の生存者を見つけ出そうとしていました。山を降りるまでこの死体の列は続いていました。山を降りると、目の前の家並みが燃えていて、炎の合間から一面の焼け野原が垣間見れました。呆然と見守るしかありません。的場辺りも燃えていて、それ以上は前に進めず、仕方なく帰宅しました。
3日目の8月8日、幹夫さんは食料の買い出しの為に市内へ行きました。鶴見橋を渡ると見渡す限り瓦礫の焼け野原です。普段は街中からは見ることができない安芸の小富士(似島)が目の前に見えました。振り返ると比治山全体の姿が横たわっていて、自然の緑が目に染みました。その緑が妙に新鮮で「あぁ、生きてるんだ」と感じました。幹夫さんにとって忘れられない光景となりました。前日までの比治山の死体は軍隊によって似島に運ばれていました。その数は約1万人と伝えらています。死臭が鼻を突く中、焼け跡を歩くと、トタン板や壁などに『この下に死体あり』とか『〇〇に連絡せよ』などの伝言板が焼けぼっくいで書かれていました。(焼けぼっくいとは、燃えさしの木の棒です)炎天下の中、肉身探しの家族の姿もたくさんいました。
ところで、一中の2年生だけ、何故8月6日が休日になったのでしようか?当時、空襲は日増しに激しくなっていたのに、広島市だけは小規模な攻撃に止まり、いずれ大々的な空襲があるものと予想されていました。その際の市中の被害を最小限度に食い止める為、市民を強制的に疎開させ居住家屋を取り壊していました。幹夫さんたち2年生は、当初は建物疎開作業のために爆心地から700メートルの土橋に行く予定でした。戸田五郎先生の手記「ピカドン」によると、2年生の引率だった恩師戸田先生は、上司の先生に「私1人で150人の生徒を連れて行くのは不可能です。何かあった時に逃げる場所もないのに、引率はできません。」と言い続け、夜中まで激論になり、上司の先生に『君は非国民だ』と言われながらも独断で8月6日を休日にされたのです。その上司の先生と引率した3年生50人は、土橋で作業中に被爆してしまいました。何故、戸田五郎先生は、8月6日を休日にされたのか…いずれ広島に大空襲があると予想していた戸田先生は、無防備の建物疎開跡で、もし空襲があったら、150人の生徒を自分一人で守りきれないという責任感と管理の限界を心配しておられたのです。上司の先生に逆らわれた戸田先生が、ずいぶんと悩まれたであろうことは想像がつきます。戸田先生の勇気ある措置のおかげで、幹夫さんたち一中2年生の命は助かりました。戦時中では考えられない、思い切った判断です。2年生は全員無事で、1年生のほとんどは全滅したことを思えば、生き残った辛さ、申し訳ない気持ちが今でも続いている、と幹夫さんは言われています。
さて、8月15日に終戦を迎えても、家の片付けは一向にはかどりません。9月17日には枕崎台風で家は水浸しになり、幹夫さんは、家から4~5キロメートル離れた渕崎に身を寄せて、段原の自宅の修理に通っていました。原爆の被害がなかった渕崎ですが、ここでも異変が起きました。元気だった人が、ある日突然髪の毛が抜け出します。肉身探しで市の中心部に入った人たちが、残留放射線を浴びてしまったのです。残留放射線とは、原子爆弾の爆発後に、周辺の土、建物、チリ、雨などに付着した放射線物質から、長期間にわたり放出され続ける放射線のことです。その後、亡くなっていく人が何人もおられました。
被爆から何年も経ってから放射線の影響で亡くなる人もたくさんいました。「原爆の子の像」の佐々木禎子さんもその一人です。佐々木禎子さんは、2歳のときに爆心地から1.6キロメートル離れた自宅で被爆し、奇跡的に無傷でしたが、避難する途中で黒い雨を浴びました。その後はとても元気だったのですが、小学校6年生の冬の初めに首がはれ、次第に身体がだるいと感じるようになり、繰り返し検査を受けた結果、白血病と診断されて入院しました。その頃は、国から被爆者への援護はまだなく、高額な治療費は被爆者にとって大きな負担でした。禎子さんは、学校にも行けず、『折り鶴を千羽折ると願いが叶う』ということを信じて、ひたすら折り続けました。しかし、中学2年生の時に虚しくも亡くなられました。
この無念な想いを慰めようと当時の同級生が全国に呼びかけて完成したのが「原爆の子の像」です。被爆したことにより病気になる、被爆者は原爆症の実体がはっきりしないままで不安な日々を過ごしてきたのです。原爆に遭った人は普通の人とは違う、病気が移る、結婚できない、移るから近寄るな、などの誹謗中傷を受けました。幹夫さんも、26歳で上京した折に、隣に座っていた人に出身がどこかを聞かれ、「広島?大丈夫?」と、サッと立ち去られた経験があるそうです。被爆者は苦しい時代を乗り越えて、今は平和な時代を迎えていますが、心と身体に不安を抱いて生きているのです。
一中の1年生の時に被爆し生き残った児玉光雄さんは、被爆した同級生が、1人また1人と亡くなっていく中、一中で被爆した生徒の中の最後の1入となりました。児玉光雄さんは、60歳を超えた頃から何度もがんを発症し、なんと20回以上手術を受けました。がん細胞が別の臓器に拡がる「転移」ではなく、異なる臓器で同時に発生する「重複」がん、です。このように何度もがんが発生するのは全身に強い放射線を受け、遺伝子が傷つけられたことが原因だろうと考えられています。強い放射線は、修復しきれない深い傷を遺伝子に負わせてしまうことがあります。全身に放射線を浴びた被爆者は、遺伝子を傷つけられ、がん化してしまう危険な細胞が身体のあちらこちらに潜んでいる状態になり、その細胞が何年も経ってから次々とがん化するのです。児玉光雄さんは70歳を過ぎてから、原爆が人間に何をもたらしたのかを明らかにしたいと考えるようになり、自ら専門の研究機関に出向いて血液を提供し、調べてもらった結果、染色体に異常が起きていると判明しました。そして、傷ついて異常が起きている染色体図などの写真を手に、被爆体験や度重なるがんとの闘いを、広島を訪れる修学旅行生やメディアに積極的に語られていました。体験記をインターネットで公開もされています。80歳を超えても証言活動を続けられ、2020年に87歳で亡くなられました。
さて、最後に幹夫さんの平和への思いをお話します。日本は平和な時代が続いていますが世界は益々不穏な状態です。現在9力国が12,000発以上の核を保有しています。核兵器を使用することは世界の破滅を意味します。核を保有するとか、実験を繰り返す愚かさを知らねばなりません。
幹夫さんは、このように言われています。『外国の要人たちが広島平和記念資料館をたくさん訪れて、一様に驚かれ身を引き締めて出ロノートに感想を記入されています。世界の人々は本当の核の恐ろしさをまだ知っていないのです。私たちは、核の恐ろしさを知らせていかねばならないと思うのです。広島平和記念公園の原場死没者慰霊碑に「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争や核兵器使用という人類全体の「過ち」を2度と繰り返さない、という誓いが込められています。人や国を非難する言葉は全くありません。「愚かな核の使用などの過ちは絶対に繰り返しません」と世界に向けて誓う、スケールの大きい想いがこのメッセージに込められていると思うのです。私たちは、心の底から、平和を築き上げようという姿勢を持たなければ、死没者に申し訳が立たない、と思うのです。』
幹夫さんは、これから私たちに何ができるのか、戦争や平和を身近なところから考えてみましょうと、いつも言われます。『弱い者イジメをしたり、された経験はありませんか?イジメは、相手(被害者)に深刻な影響を与えますが、仕掛けた側(加害者)は相手の痛みを感じません。自己中心的な考えはやめて、相手を理解し、思いやりを持つ、お互いが認め合う、相手の身になって考えてみよう\という姿勢が大事なのです。想いだけではなく、行動に移していかなければ結果は得られません。国と国の意識が、いがみ合いではなく、相手の身になって行動しなければなりません。対立から対話へ、の行動を始めましょう。身近なところから共に仲間という意識を持ちましょう。そうすれば、良い友達関係が生まれ、良い学校、良い国、良い世界へと、平和が築かれて行くのです。自ら率先して、平和の想いを育て、勇気を持って実行していきましょう。』
この才木さんの思いを、私は1人でも多くの方に伝えていきたいと思っています。読んでいただきありがとうございました。

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